『J.Boy』 〜「校内研究」なんて、やめませんか?〜

学校経営

 5月。新年度の怒涛の仕事にもまれ、心身に不調を来すようなことがないようにして欲しいものです。俗に「五月病」とも言われ、学校ではさらに忙しさが加速していく時期かと思われますが、学校現場を忙しくしている原因の一つに「校内研究」があります。5月の大型連休明け辺りから校内研究が動き出し、先生たちにとっては、また一つ忙しさの種を抱えることになります。

 校内研究というのは、各学校でテーマや教科・領域を決めて、定期的に「研究授業」と「研究協議会」を行うというものです。研究授業では、一人の先生が(複数で行う場合もあります)、他の先生たちが見ている中で、研究対象の教科・領域の授業を行います。授業を行う「一人」は、多くは低学年、中学年、高学年のブロック(「分科会」という名称が一般的)の代表です。決め方は「立候補」であったり、「若い人がやる」などの暗黙のルールに則ったりしているケースが多いようです。研究協議会では、大学教授などの講師を招き、最後の指導・講評で締めるという形式で行われることが多いようです。

 学校が校内研究を行っている背景には、教育公務員特例法の第21条に「教育公務員は、その職責を遂行するために、絶えず研究と修養に努めなければならない」という規定があるためとされています。ですが、「研究と修養」は何も校内研究でなければ行えないというものではありません。毎日の授業が、「研究と修養」に他ならないのだと、私は考えています。ただし、漫然とただ授業を行っているだけでは、研究にも修養にもならないでしょう。先生たちが、何らかの課題意識をもって授業に臨み、できればそれを他の先生と共有できるようにしていくことが必要なのだと思います。

 さて、西新宿小学校では、2024年度から校内研究を行ってきませんでした。規模を縮小するとか、「研究紀要」(年度の校内研究についてまとめた冊子)を作らないとか、そういう「やっていない」ではなくて、一切なしにしていました。でも、何の不都合もありませんでした。それどころか、先生たちは以前と比べて生き生きと仕事をしていたように思います。あくまで、私から見てということですが。校内研究をやらなくても、「全然大丈夫なんだ」という一例にはなると思います。西新宿小が校内研究をやめた理由は、校内研究が「黒板を背にして立つ」教員側の都合でしかなく、「指導」や「教授」という上からのベクトルを強めていくだけの作業でしかないと考えたからです。

 「研究で教員は育つ」というような言説が、学校現場でしばしば語られますが、これは都市伝説みたいなもので、研究で育ったという教員がはたして本当にいるのでしょうか。研究の「作法」を心得た先生や、一つの研究組織に所属してそこでの研究に心血を注いできた先生には、これまで何人か出会いました。だけど、それで教員としての資質が向上したのかというと、それは甚だ疑問です。学校の研究(学校での校内研究)というのは、「上」(国、文科省、教育委員会等)が「よし」としているコトを、無批判に受け入れることに他ならないのだと思います。その証拠に、校内研には必ず「講師」が来て、最後に何か言って帰っていきます。講師は、だいたいがその教科や領域等に専門的に取り組んできた人(いわゆるオーソリティ)が呼ばれます。そして、「国語では、〜するのがよい」とか、「(体育の)ーという領域では、〜すべきだ」という話をして、先生たちはそれを有り難く拝聴します。そこでは教員個々の教育に対する信念とか、クラスの子どもたちの状況は、二の次に置かれることになります。このようにして、校内研究では「〜でなければならない」や「〜すべき」というコトが大手を振るようになり、自ずと自由な雰囲気が削がれていきます。教員の中から「おもしろそうだからやってみよう」という進取の気質や、新しいことへのチャレンジ精神は、校内研究とは真逆の方向性にあります。だから、先生たちは段々と疲れていくか、もしくは自分では考えずに、言われたことを無批判にこなしていくようになります。何度も言うようですが、校内研究というものは、総じて「上から」です。「ねばならない」「〜すべき」ばかり。とにかく、上からのベクトルが強過ぎるのです。今、変えていかなければならないのは、このベクトルです。もっと、先生たちが、そして子どもたちが、「おもしろそう」「やってみたい」と思うような方向への転換を図ること。上からのベクトルをゼロにはできないとしても、ボリュームを小さくすること。ベクトルの向きと量を変えていくことが、必要なのです。

 浜田省吾を代表する曲『J.BOY』は、ちょうど30年前の1986年にリリースされました。「果てしなく続く生存競争(サバイバルレース)走り疲れ/家庭も仕事も投げ出し 逝った友人(あいつ)/そしておれは心の空白埋めようと/山のような仕事 抱え込んで凌いでいる」という歌詞は、「24時間戦えますか」的な「バブル」の時代を象徴するかのようですが、そのまま現在の学校に置き換えることもできると思います。特に、校内研究に取り組む先生たちの姿を彷彿とさせます。「研究で教員は育つ」という言葉は、実は「果てしないサバイバルレース」に先生たちを無理やり放り込み、勝ち残った者を「育った」と言って誉めそやし、途中で走り疲れた者を敗者として切り捨ててきた、そういう「上」の者たちが吹聴していたフレーズなのではないでしょうか。校内研究が生み出すもの、それは「疲弊」だけです。それに加え、先生たちには「無批判」や「従順さ」が、「上」の者には何かの研究をやったという「勲章」がもたらされるのかもしれませんが…。いずれにしても、これからの学校には、必要ないだけでなく「害悪」であるとさえ思っています。過激な発言に気分を悪くした方もいるかもしれません。ですが、そんな方こそ「心の空白を埋めようとして、山のような仕事を抱え込んでいないか」を、ぜひご自身の心に問いかけてみてほしいと思います。

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