4月初旬のあるテレビのニュースで、家庭生活への中東情勢の影響が取り上げられていました。原油価格高騰による医療現場での対応とともに、ランドセルを扱う専門店を取材した映像が映し出されました。「ランドセル?」と咄嗟に私は疑問に思ったのです。その報道によると、ナフサの不足により接着剤が高騰(あるいは、入手が困難)することで、ランドセルの生産や販売に影響が出ている(出そう)とのことでした。医療用の手袋や家庭用のラップフィルムが、仕事や生活に欠かせないものであるということはわかりますが、ランドセルは生活に欠かせない必需品なのでしょうか。おそらく、ニュース番組でわざわざ取材して取り上げたということは、番組制作側はランドセルも生活必需品の一つであると考えたのでしょう。小学校入学を控えた子どもがいる家庭では、「ランドセルが手に入らなくなるかも」とか「ランドセルが値上がりする前に買っておこう」と、不安になることは推察できますが、一般的な感覚からすると、ランドセルが必需品かどうかは迷うところではないでしょうか。だって、ランドセルも要はカバンですから、代替となるものならいくらでもあります。それでも、ランドセルでなくてはならない。多くの人がそう考えているのだとしたら、私はすこし空恐ろしいような気持ちになります。それは、小学校に永年勤めていて、ランドセルに対して一般に描かれているのとは異なる考えがあるからなのかもしれません。
まず、確認しておかなければならないのは、小学校で通学に使うカバンがランドセルでなければならないと規定されている訳ではないということです。通学用のカバンが学校や自治体などで指定されている場合もあるようですが、一般的な学校(少なくとも東京都の学校)では、「ランドセルで来てください」などとは言っていません(たぶん)。どこからも、誰からも強制はされてはいないのです。「小学校にはランドセルで通う」というのは、あくまで「慣習(慣例)」です。だから、小学校に行く時のカバンは、実は何でもいいんです。安全のため、両手を空けた方がいいというのは、説得力のある理由の一つではあると思いますが、それさえも絶対ではありません。市販のリュックでも、肩掛けカバンでも、極端なことを言えば、100円ショップで売っている簡易なリュックのようなものだっていいんです。要するに、必要な物を持ち運べさえすれば。さすがにスーパーのレジ袋だと、耐久性に問題があって、ふさわしくはないと思いますが、ものを持ち運ぶという観点だけで見るなら、レジ袋でさえ許容範囲内だと私は思います。(ですが、耐久性以外にもスーパーのレジ袋ではダメな理由があります。そのことについては、少し先で述べます。)
さて、現在の日本の「ランドセル事情」は、はっきり言って異常だと思います。5年くらい前に、ランドセルを選んだり買ったりする消費行動を「ラン活」などと言って、取り上げられていましたが、今は静かに、淡々と「ヒートアップ」しているように思えます(矛盾する表現ですが)。そう考える理由の一つとして、1年くらい前に自宅のすぐ近くに「ランドセル屋」ができたことを例に挙げます。ランドセルを売る店、ランドセルしか売っていない店なので、「ランドセル屋」と言っていいのでしょうが、結構な繁盛ぶりです。私の家は、都内の私鉄沿線の急行の止まらない駅が最寄りで、商店街が比較的充実している街です。ですが、休日の買い物でわざわざこの街を訪れる人は少なく、そこにランドセル屋ができたということだけで、多少の驚きがあります。中が覗けるようなお店なので、お客さんがどれくらい来ているかという様子がよくわかるのですが、休みの日にはだいたいお客さんの姿がある。それも、3月や4月という時期でも(3月はランドセルを買うにしては遅すぎますし、4月は早過ぎます)。そして、その店を訪れている子どもの年齢は、4歳か、場合によっては3歳くらいに見えることもあります。小学校入学が近づいたからという理由ではなく、入学の1年以上前から、ランドセルの購入に向けて準備をしている様子が伺えます。なぜ、そんなに前からランドセル購入について考えているのでしょうか。この問いを考えるヒントが、「社会との接点」ということにあると思います。そこには、きっとこんなストーリーがあるのでしょう。生まれたての赤ちゃんだった子どもが、1歳、2歳と成長していく。やがて4歳になる。「もうすぐ、小学校だね」と、祖父母からも、知人からも言われるようになる。そして、その流れで「ランドセルは、どうしようかね〜」という会話が交わされる。5歳になる。「来年は、小学生だね。ランドセル、買わなきゃね〜」。私も自分の子どもたちの時に、このような会話をした記憶があります。小学校は、その後の中学校、高等学校、大学と続く「学業を身につける場」の入り口として、保育園・幼稚園・こども園とは、一線を画す位置付けにあります。子どもが社会に出ていく入り口として、人々の意識にあるのでしょう。だから、普通の買い物とは違う。何年も前から、調べて、実物を見比べて、いざ購入ということになるのだと想像します。実際には、祖父母に購入を頼むというケースが多いのだと推察します。(きっと、私のところにももうじき依頼が来るのだと思います。)
余談ですが、先ほどの会話は「へー、ランドセルも買ったんだ。学校、楽しみだね〜。」という言葉が続くことが想像できます。ランドセルを買ってもらった子どもは、匂いもまだツンと新しい、ピカピカのランドセルを家で何度も何度も背負っていることでしょう。「はやく学校いきたいな」と、子どもは学校に行く日を心待ちにします。しかし、いざ学校に行ってみると、「あれはダメ。これはダメ。」「早くしなさい。静かにしなさい」という小煩い先生の小言ばかり。入学前、ランドセルを買ってもらった頃は、周りの大人がみんな「楽しみだね」と言っていたのに、学校はちっとも「楽しくない」。こう感じている子どもは、たくさんいることでしょう。「小一ギャップ」という言葉がありますが、この大人の「楽しみだね」に対して、実際の学校は「全然楽しくない」ことが、本当の「小一ギャップ」なのだと私は思います。
さて、話を本筋に戻しますが、小学校が社会への接点としてあるということは、同時に社会という巨大なピラミッドの入り口に、子どもは立っているということになります。子どもは保護者といっしょに、ヒエラルキーの底辺部分に組み込まれていくのです。子どもはそれを意識することはありませんが、保護者は何となくピラミッドの存在をわかっているのでしょう。明確に意識している人も、いるかもしれません。我が子がこれから向かう先は、社会という巨大なピラミッド。比較と競争が渦巻く、弱肉強食の世界。そこを勝ち上がっていくには、不必要に目立つ必要はない。不用意に「敗者」のレッテルを貼られるようなことは避けるべき。そう考えるのでしょう。保護者は「みんなといっしょに」を最優先した結果、ランドセル選びに奔走することになるのです。仮に、ランドセルではないカバンで毎日来ている子がいたとすれば、周りの人からは「何であの子はランドセルじゃないの?」という目で見られることになります。悪い意味で目立ってしまうことになるのです。また、もし100円ショップの簡易なリュックで、もしくは(あくまで想像、思考実験として考えてください)「レジ袋」で学校に来たいる子がいたとしたら、学校の先生たちからは「舐めてんのか?」という視線を向けられることになります。こちらは、学校の「神聖化」ということに関わっているのだと思います。 〜つづく〜


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