退職の辞 その2−①

学校経営

(次の文章は、教員に向けた「校長室通信」の最終号に書いたものです。)

 学校だよりの3月15日号では、「退職の辞」として「評価」についての考えを述べさせていただきました。もう一つ、最後に皆さんにお伝えしたいことがあります。それは、「権威」についてです。評価とも密接に関連することで、この校長室通信でも何度か取り上げてきました。まずは、評価と権威がどのように関係しているのかというところから。評価とは、一定期間の(あるいは一定の内容の)児童・生徒の学習の成果について、先生の判断により行われます。ですから、「何となく」とか「適当に」などというのは許されません。しっかりとした根拠があって、必要があればそれを示せるようにと、評価は行われています。その根拠となるのが、テストの点数だったり、授業中の態度だったりする訳です。が、いかに根拠がしっかりしていても、人が人を評価するということ、つまりはある人は「よい」、ある人は「悪い」と決めることには、いくらか気が引ける部分があるのだと思います(人によって違うのかもしれませんが…)。ですから、先生の評価に対して「これは間違いない」という、お墨付きが必要になってきます。これは、よく言われる「客観的評価」や「評価の信頼性」ということよりも、根源的に評価を性格付けるものと言えます。「この評価は、由緒正しい、きちんとしたものですよ」ということを、子どもにも、保護者にも知らしめる必要がある。そこに「権威」というものが関わってくるのだと思います。辞書によると「権威」とは、「①人を抑えつけて従わせる力。人がひれ伏して従うような卓越した力。②学問・技術など、その道で特に優れ、信頼できると認められていること。また、そのような人。第一人者。オーソリティー。」(旺文社国語辞典第十一版)とあります。学校の評価で言えば、子どもや保護者に、つべこべ言わせない「何か」となるのですが、この「何か」が「権威」と言えます。この「何か」(権威)は、別に評価にだけあるのではありません。授業中にも、給食中にも、休み時間にもあるものです。それは、目に見えるものだけでなく、目に見えないものもたくさんあります。例えば、「教科書」。子どもが学習する内容は、時代によって、人によって、考え方や意見が異なるような場合があります。そんな背景があるような事柄が教科書に掲載される時は、「権威」ある人(ここでは②の「オーソリティー」という意味です)の意見なり、学説なりが採用されているんです、きっと。そこまで大袈裟な話ではなくても、教科書は「権威のかたまり」みたいなものです。教科書の後ろの方には、編集協力者として大学教授やら校長やらが名を連ねていますね。これも、「権威」です。その他にも、卒業式の最初と最後に「礼」をするのも、職員室に入る時に学年・組、名前を言うのも、権威が関わっています。(「なぜ?」と、問われる方がいるかもしれません。それは、何に対してその行為をしているのかを考えるといいと思います。卒業式の礼は、たぶん「国家」という権威に対して、職員室入室の作法は、先生の権威に対してなのでしょう。)さらに別の例としては、保護者が学校に対して、「担任を変えろ」とか、「クラス替えをしろ」と言ってきた場合があります。一般的にはこの要求に対して何と答えるでしょうか。多くの場合、「それはできません」と答えるのだと思います。これも、なぜかと問えば、「権威」にぶち当たります。クラス編制や学級担任は、校長という「権威ある者」が決めたものだから、そう易々と変えることはできないということなのだと思います。つまり、権威とは、特別な人と一般の人を分ける一線であり、GAP(段差)なんだと思います。同じステージ(同じ高さ)で一つのことを論じると、それは意見の交換になりますが、一段高い所からだと、ある効力をもって発せられるようになります。校長という役職は、そんな権威のかたまり(教科書と同じですね)で、同じことを言っても、効力を増すように思われているのは、つまりそこに権威(あるいは「権力」)があるからです。さて、私の教員生活の後半は「権威の否定」が大きな課題となっていきました。それは、本当の学びについて考えた末に、権威は必要ないというところに行き着いて出てきた答え(あくまで暫定的なものですが)です。本当の学びには、教科書は必要ないんです。…でも、文科省は、「教科書を使え」と言っています。使わないと「処分するぞ」と。そんなもん、本当の教育ではありません。国家の統制の中で、「看守」のような役割を押し付けられているだけです。教員としての矜持(プライド)を取り戻すためには、国家の統制から自由にならなければなりません。言いなりでは、ダメなんです。校長のある時期からそんなふうに思うようになりました。が、そのことをはっきり皆さんには言えませんでした。「看守」として、学力だけで子どもを値踏みし、管理とか規則とか服務とか言って先生たちを縛りつけ、いつも仮面をかぶって保護者に接するようなことはしたくなかった。そんな教員なら、「まっぴら御免だ」と思うようになりました。(途中から思うようになったんです、念のため。) 〜つづく〜

コメント

  1. 高山功平 より:

    子育てをしていると先生という「権威」を振りかざす姿を目にします。 先日は、中学の部活動で試合に負けた生徒を集め大きな声で権威を振りかざしていました。 勝てば顧問の力、負ければ生徒の責任…大人、先生、教育者、顧問と子どもたちの関係がこのままでよいのかとかわいそうでなりません。「このままではどうせ大会も勝てない、悔しかったら練習しろ」「俺は忙しいから練習には行けない、自分たちで何とかしろ!」…無茶苦茶ですw

    部活を選ばずクラブチームに、学校の授業は内申を上げるために我慢し、本気の学びは塾に求める、そんな流れやそうならざる負えない背景に触れると、学校とは何のためにあるのか考えてしまいます。

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