『夢の中へ』 〜「探究」について考える〜

学び

 もうすぐ6月。子ども自身が、自らの課題に取り組みはじめる時期だと思います。

 現在の学校教育における一番のキーワードは何かと問われたら、多くの人が「探究」と答えるのではないでしょうか。国(文科省)も「探究」を重視していることが、中央教育審議会の議論からうかがい知ることができます。ところが、どこを目指しているのかとなると、首をかしげざるを得ません。資料(※)によると、次のように「探究」の定義が検討されているようです。「実社会・実生活との関わりの中で見いだす自己の興味・関心や問題意識に基づき課題を設定し、教科等の学びを必要に応じて活用し、試行錯誤しながら、課題解決を通じた新たな価値の創造を繰り返していく学習のプロセス」。なるほど、探究するには、興味・関心や問題意識が必要です。学校の「勉強」ですから、教科の学びを活用しないといけません。また、せっかく取り組むのだから、やったなりの価値がないといけません。このような意見が交わされていたというのは想像できます。また、探究と一口に言っても、それを使う人や使われる場面によって中身が異なっているのでは、議論に支障を来します。今後の授業作りもままなりません。だから、しっかり定義をして「何をもって探究とするか」をはっきりさせる必要がある。そう考えるのは、わかります。しかし、定義が明確になると、実際にはそこからはずれるものが出てくる。すると「それは探究ではない」ということになります。それらは、指導の対象になったり、場合によっては排除されることになります。ここに大きな「落とし穴」があるような気がしてなりません。私は、日本の教育は「基礎づけ主義」と「伝統主義」が大きな支柱となっていると考えています。「探究」の定義づけは、まさに基礎づけ主義の弊害を出だしから背負い込んでいるように思えます。この調子でいくと、探究もやがては風化していくでしょう。様々な教育政策の末路を見れば、これは自明のことに思えてきます。

 アメリカの哲学者、ジョン・デューイは、主著『民主主義と教育』の中で、次のように言っています。「すべての思考は研究であり、しかも、すべての研究は、その人がいまなお捜し求めているものを世間の人々は皆すでに確実に知っているとしても、その研究を行っているその人にとっては、本来的であり、独創的なのである。」探究という視点から読むと、デューイはここで二つのことを言おうとしているのだと思います。一つは、「探究(研究)」が思考力を育てるということ。もう一つは、探究の結果が、すでに広く知られていることでも(たとえ結果が自明なものであったとしても)、取り組んだ子どもにとっては唯一無二の貴重な体験であること。さらに、次のような大人への戒めを導き出すことができるでしょう。それは、子どもが行っていることが、たとえ結果はわかっていたとしても、たとえどんなに些細なこと、どんなにバカげたコトであったとしても、子どもや周囲に危険が及ばない限り、その活動を尊重し、見守ることが大切だということです。大人は、つい口や手を出したくなるものです。「こうするといいよ」とか、「もっとこうしてみたら」とか。でも、子どもが夢中になって、ある事柄に取り組んでいるとしたら、それは立派な探究なのです。だから、まずは子どもがやっていることを見守る姿勢が大切なんだと思います。子どもから助けを求められたら手を貸すくらいが、大人に求められる役割としてはちょうどいいのだと思います。大人が、あーだ、こーだ考えた「探究」は、子どもにとっては、あまり意味のないことに思えてなりません。

 さて、1973年にリリースされた井上陽水の『夢の中へ』という曲には、「探しものは何ですか」というフレーズが繰り返し出てきます。2番には「休むことも許されず 笑うことは止められて/はいつくばって はいつくばって/いったい何を探しているのか」という歌詞があります。半ば強制的に何かを探し求める様子は、学校をイメージさせるとともに、1990年代に盛んに使われた「自分探しの旅」や「本当の自分探し」を先取りしているようにも思えます。では、ここでの「探しもの」とは何か。私は「現実」、あるいは「現実の生」なのではないかと思います。そして「夢の中」は、「理想」、「現実からの逃避」、または文字通りの「夢」なのではないでしょうか。私たちは時々、理想の世界を夢に見て、心躍らせます。一方で、食べたり、寝たり、排泄したりという生き物としての営みがあり、人と交わりながら仕事や家庭生活を営んでいます。その中で、自分が思い描く人生とのギャップに悩み、時には「何のために生きているのか」という問いに直面します。それらの課題に、私たちは誰かに相談したり、試行錯誤したり、自分自身で折り合いを付けたりしながら解決に向けて取り組んでいます。これこそが、本当の探究なのではないでしょうか。「どう生きるべきか」「他者とは何か」という大きな問いから、あるモノの中身が「どうなってるのかな」という小さな疑問まで、日常の生活は探究の連続とも言えます。国は、大上段に構えて「かくあるべき」を現場に突きつけてきます。でも、所詮それは「絵に描いた餅」。学校は、もっと日常レベル、子ども目線で考えていった方が、先生たちにとっても、子どもたちにとっても得るものがあるように思います。

 国の言う「探究」は、なんだか現実感を伴わない夢物語のようです。もっと子どもの身の丈に合った活動で「よし」とすべきではないでしょうか。取り組んだことが、必ず何らかの価値をもたらすとは限りません。また、何気なく行ったことが、後で自分にとって大切な宝になることもあります。『夢の中へ』の歌詞にもあります。「探すのをやめた時 見つかることもよくある話」なんです。

(※)中央教育審議会 教育課程部会、生活、総合的な学習・探究の時間ワーキンググループ資料「総合的な学習・探究の時間に関する目標・内容の構造化等について」(令和8年1月27日)

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