『「時数計算」の怪』(2)

学び

 公立小学校は、学期ごとに実施した授業時数を教育委員会に報告することが義務づけられています。報告しなければならないのです。その具体的な方法ですが、例えば「国語」を1時間(45分間)行ったら、「国語=1(時間)」とカウントします。この数を加算していって、最終的に1年間で実施した教科の時数になります。この「数」が、法律で示される「標準授業時数」と「ほぼ同じ」になっていることが求められています。つまり、学校は標準時数通りやったことを報告し、教育委員会はちゃんとやったかどうかを確かめているのです。

 先生たちは、「週ごとの指導計画(通称:週案)」を見ながら、自分がやってきた授業を数え上げます。それも、標準授業時数と同じくらいになることを前提に、計算していくのです。時間割が決まっているのだから「たし算していけば、何の難しさもないだろう」と思われる方もいるかもしれませんが、そうではないのです。まず、祝日などで平日に休みになる日があります。その日は、授業がありませんから、週の累計が変わってきます。次に、午後に保護者会があったり、先生たちの研究会があったりして、午後の授業がカットになる。また、遠足に行ったり、区や市ごとに行う「音楽鑑賞教室」などの行事に出かけたりする。さらには、避難訓練や身体計測など、授業時間内に割り込んで実施するものもある。と、単純に時間割通りに数を加算していけばいい、という話ではないのです。

 ところで、時数計算は標準授業時数を下回らないことが原則になります。とは言っても、どこまでが許容範囲かということが問われているのが実情です。明確な基準が示されているわけではありませんが、マイナス10時間までがぎりぎりセーフといったところでしょうか。3年生で70時間やらなければならない社会の授業を、「30時間しかやっていない」となると相当まずいことになります。一つの教科の実施時数が極端に少ないような場合は、その教科を行っていないのではと見られて、場合によっては「処分」の対象にもなってきます。そんな恐ろしい結末も先輩の先生たちから囁かれるので、若い先生たちは悲壮感を漂わせながら作業に励むことになります。

 そんな「時数計算」は、多分に複雑怪奇な例を孕んでいます。例えば、国語の時間に避難訓練を15分間実施したとします。この時の計算は、国語3分の2時間、行事3分の1時間という計算になります。避難訓練は、教科の学習ではないので、別にカウントしなければならないのです。これは、避難訓練は15分だったことをなるべく忠実に数え上げようとしていると同時に、少しでも授業の時間数を確保しようとする意図の表れです。なので、このような複雑な計算になるのです。また、運動会の練習だったとしても、「体育」ではなく「行事」でとか、学芸会の練習は何、遠足は何でカウントするという、本当に瑣末な決まりごとがあります。さらに分数も含まれるので、トータルするとなかなか合致しないということが起こります。それを計算が合うまでやらなければならないので、先生たちはこの作業だけでも相当疲弊することになります。

 いったい何のために、こんな摩訶不思議な作業があるのでしょうか。単純に言って、これは先生たちのためだけにあります。子どもたちには、「一切」関係ありません。子どもたちにとっては、何の教科を何時間やったのかなんて、ほとんど「どーでもいい」ことです。極端なことを言えば、「あぁ算数なんてやりたくないな」と思って、先生の言っていることを上の空で聞いていた子どもにとっては、45分なんてあっという間に過ぎてしまいます。その子が一時間で何を学んだかなんて、ちっともはっきりしません。こういう例は、おそらく全国の学校でものすごくたくさん起きているに違いありません。それこそ、子どもの数だけあると言えるでしょう。もちろん、授業に集中して取り組んで、一時間一時間しっかりと何かを獲得している子もいるでしょう。ですが、子どもがその時間に獲得したことは、教える側が思い描いていた「算数として身につけさせたいコト」だったとは限らないのです。大人になっても覚えている学校の思い出は、授業の内容ではなく、先生の言い間違えだったり、授業中に起きたハプニングだったりするのは、このことの端的な表れなのではないか思います。これらはすべて、子どもたちの側に視点を移すことによって見えてきます。

 でも、時数計算がなかったら、教員が好き勝手に自分がやりたい授業だけをするのではないか。例えば体育ばっかりやって、社会や理科、ましてや道徳なんか全くやらないということが出てくるのではないか。そういうことを防ぐための「予防策」が必要だという理屈はわかります。私も、すべて教員の好きなようにやればいいと考えている訳ではありません。公立学校の授業として、行っていくべき授業の内容をしっかりと定めておく必要があると思います。私が言いたいのは、一つは教育には本質的に「不確実性」が伴うものであるということ。もう一つは、教科という区分や45分間という授業の時間という大人の側で勝手に定めた事柄に、拘泥すべきではないということです。現在、学校で行われている「時数計算」は、瑣末な作業であり、典型的な「ブルシット・ジョブ」と言えます。

 「時間割」があって、「教科書」があって、さらに「ちゃんとやってますか」という確認のための「時数計算」がある。これは、最初から最後まで、教える側の必要事項であって、子どもの側の「学び」とは大きく掛け離れています。何を、どれくらいの時間をかけて学ぶのか最初から決まっている。そして、時間をかけてちゃんと教えたんだから、わかっていないのは子どもが悪いと言わんばかりのように私には感じられます。さらには、ここに「テスト」が介在してきます。どこに子どもの学びがあるのでしょうか。どこに、その先生らしい授業があるのでしょうか。このように、今の学校のカリキュラムは「ガチガチ」で、「楽しさ」なんてひと欠片もありません。私は、時数計算というものを以上のように捉えていますが、一般の先生たちには、「授業に楽しい要素なんて必要ないんだ」と考えさせる根拠になっているようにも思えます。

 時間割で「いつ」やるのか決まっている。教科書で学習する「内容」が決まってる。単元が終わったら、テストで「できたかどうか」が確認される。さらに、ちゃんとやったのかどうか、時数計算でダメ押しの確認がされているのです。この流れが、「当たり前」になっている学校。この流れに、疑問をもたず、「授業時数を下回ったら「処分」されるかも」と戦々恐々としている先生たち。これって、何なんでしょう。まるで、工場で製品を作っているのと全く同じですよね。まさに製品管理の発想です。これが、果たして「人を育てる」ということなのでしょうか。このような「教育」で、夢やロマンを語れるのでしょうか。そんなことは、絶対にないと思います。だから、時数計算なんて必要ないんです。やめなきゃダメなんです。

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