小学校の一日のスケジュールは「時間割」で決まっています。授業は、一時間が45分間。多い日には6時間目まであります。そして、どの教科を何時間行うのかは、週ごとに決まっています。なぜそうなっているのかというと、学校教育法施行規則という法律に「標準授業時数」が示されているからです。教科ごとの時間数の割り当ては、法律で決まっている。ですから、ある学校やあるクラスが、特定の教科を多く行うということは、原則的にありえません。教科の時数は、全国一律に同じなのです。そしてこれは、必ず守らなければならないコトなのです。
(以下はあくまで私の解釈ですが)「小学校6年」という就学期間が先にあり、その6年間で「何をどこまで教えるか」というのが後から決まっています。この「何をどこまで教えるか」を規定しているのが「学習指導要領」です。喩えれば、「器」が先にあって、その器の大きさに応じた「中身」が決まっている。(この考え方自体もどうなのでしょう。人間の能力をあまりに平均化して捉えているように感じられるのですが。)そして、具体的な内容を「単元」に分けて、子どもに与えよう(理解させよう)と考えるわけです。この時、「う〜ん、これを教えるには◯時間くらいはかかるよね」と、きっと誰かが言ったのでしょう(あくまで、私の想像です)。この時に思い描かれるのは、一般的な子ども像で、これくらいの時間が必要だというのは大雑把な「見積もり」でしかありません。勿論、日本の学校教育も100年以上の積み重ねがあり、全国で数多くの実践がありますから、実践知から必要な時間を算出しているとも考えられます。しかし、一つの授業だけで見れば、早くできる子もいれば、時間のかかる子もいるはずです。30人の子どもが、同時に終わるということは絶対にあり得ません。必ずばらつきはある。それでも「分数のたし算」には「◯時間」と、単元ごとに決まっています。この数値は、教科書に示された(教科書会社が示す)例示に過ぎません。しかしこれが、先生たちの苦労の種であり、亡霊のようについて回っているのが現状です。具体的には、教科書で2ページ分を扱う場合にも、ある子は5分で終わってしまう。ある子は45分かかっても終わらない(十分に理解できない)ということが起こります。これは、算数だけではなく、国語でも、社会でも、理科でも、体育でも、音楽でも同じです。まあ、これは当然と言えば当然と言えます。なぜなら、一人として同じ子どもはいないのですから。同じ内容を同じように教えようとしても、当の子どもが違うのですから、かかる時間は当然違ってきます。それに対して、先生たちは「涙ぐましい」努力をしています。早く終わった子には、別の課題を出す。時間のかかる子には、個別に教えたり、「ヒントカード」を作って渡したりする。これが、毎日、毎時間です。たとえ例示であっても、教科書に〇時間と示されたことで、先生たちは授業の進度に頭を悩ませることになります。最近では「自由進度学習」というものが注目されていて、その実践も増えてきているようです。自由進度学習が出てきたことで、一単位時間の子どもの学習の幅は以前より柔軟に考えられるようになりました。しかしその多くは、単元の扱いは従来とそれほど変わっていません。喩えると、おでんの具を今までは均等に切り分けていたのを、子どもによって切り方を変えているだけに過ぎません。自由進度学習と言っても、進め方のすべてを自由にできるわけではないのです。結局、一人一人子どもは違うのですから、同じ内容であっても、同じペースで進めようとすることに無理があります。これは、「授業」という営みの根幹に関わることですが、無理であるにもかかわらず、先生たちは「当然のこと」「やらなければならないこと」として、毎時間の授業に臨んでいます。
すべては、6年間という就学期間に対して、何をどこまで指導するかが細かく規定されていることが元凶です。繰り返しになりますが、一人一人違う子どもに対して、同じ内容を同じ時間をかけてやらせようとすることに無理があるのです。「ここまでやる」「ここから先はやらない」という範囲を明確に決めておくことは、決められた内容がどれだけ「正確に」「はやく」できたかを競わせるには便利です。うがった見方をすれば、競わせるために、内容を決めているとも考えられます。実際、文科省が意図しているかどうかは別にして、中学校や高等学校の学習指導要領は、入学試験の出題範囲に大きく影響しています。というか、範囲がなければ入試自体が成り立ちません。もし、競争のために都合がいいからということで、指導する内容を決めているのだとしたら本末転倒です。元来、教育とは、人類が培ってきた英知を後の代に伝えていく営みであり、「競争」が入り込む余地はないはずです。教師は、個々の子どもの優劣については、「そんなのどうだっていい」というスタンスでいるべきだと思います。教師の方が、先頭に立って競争の旗振りをしているのだとしたら、それこそが教育の最重要課題に他なりません。いずれにしても、「う〜ん、これを教えるには◯時間くらいはかかるよね」から割り出された、単元ごとの時間数に先生たちは、毎日、毎時間多大な苦労を強いられています。これも、すべて子どもを「同じ」に扱おうとすることの悲劇なんだと思います。「富国強兵」を目指す時代であれば、何の問題もなかったのでしょう。しかし、今は違います(国の偉い人の中には、今でも「富国強兵」を目指している人が多いのかもしれません)。元々人間は、多様なのです。生まれもった能力や資質、育ってきた環境が違うそれぞれが、複雑な社会を形成しているのですから、多様であることが初期設定のはずです。ところが、学校はそれを「同じ」に扱おうする。そこにすべての誤りがあります。「画一・一斉ではダメだ」「多様性を大事にしよう」は、これまでも再三指摘されてきました。「多様性」「多様化」さらには「個別最適化」などが、時代のキーワードとして取り上げられます。そんなことを声高に言わなくても、多様であることは誰もがわかっていることです。しかし、行動に移されることなく、何一つ変わっていない。多様性は、ただのお題目になってしまっています。
だから、何をどこまで指導するかという学習指導要領の規定の方を、「もっと柔軟に」「もっと緩く」すべきでなのではないでしょうか。


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