『僕は今日も 〜評価再考〜』

学び

 7月。学校は、評価の時期を迎えます。評価は、何のためにあるのでしょうか。その答えの一つが、子どもが「自分を知る」ためにあると言えるでしょう。自分を知るためには、他者との比較や他者からの評価が必要不可欠です。たった一人では、自分の特性や得意・不得意に気付くのは難しい。というか、ほとんど不可能です。世界には自分以外にも多くの人がいて、様々な人の特性を知ることで、自分の「よさ」や「至らなさ」がわかるのだと思います。そして子どもは、身近な人の価値付けを含んだ言葉によって、少しずつ社会の中での位置付けを知ることになります。

 Vaundyの『僕は今日も』という曲には、親から子への「評価」が歌になっています。「母さんが言ってたんだ 「お前は才能があるから芸術家にでもなりな」と/また根拠のない夢を語る/父さんが言ってたんだ 「お前は親不孝だから1人で生きていきなさい」/また意味もわからず罵倒する」この曲を聴いていると、親や先生という大人の言葉は、時には子どもにとって大きな励ましになることもあるけれども、逆に子どもの心に鋭く突き刺さる場合もあるということを感じます。私は、大人の子どもに対する評価については、殊の外慎重であるべきだと考えます。特に、何事にも評価がついて回る現代社会にあっては、何気ない言葉や行いで子どもの心を傷つけてしまっているかもしれません。

 学校の評価も、子どもが「自分を知る」ための貴重な機会であると言えます。しかし、その最大の難点は、評価される側が必ずしも評価を求めていないということにあります。にもかかわらず、「能力」(平たく言えば「勉強」)という一元的な価値でその良し悪しが一方的に値踏みされているのが現状です。文字を読んだり書いたりすることが苦手な子どもに漢字のテストをする。たし算、ひき算が得意じゃない子に計算テストをする。(漢字や計算は子どもが嫌がってもやる必要があるのでしょうが、頻繁にやる必要はないと思います。)走ることが嫌いな子にかけっこをさせる、歌が苦手な子にみんなの前で歌わせる。それも、ただ走らせたり、歌わせたりするのではなく、「いい/悪い」という価値を伴ったものとしてやらせる。子どもは、一々文句を言ったりはしませんが、内心は先生にやらされることを仕方なく受け入れているのではないでしょうか。

 される側は求めていないにもかかわらず、行う側が一方的に行っている評価。社会が一つの方向に向かい、人間の価値を人々が共有できていた時代には、一方的な評価でも問題はなかったのでしょう(例えば、軍国主義が支配し、戦争を繰り広げていた時代には、強い兵隊になる人間が求められていたように)。しかし、今は違います。「多様化」「多様性」の時代とも言われますが、そもそも人間は「多様」なのです。今になって多様であることが見直されたのではなくて、これまでが多様であることを尊重していなかったと言えるのではないでしょうか。学校が一方的に、同じ内容を同じように子どもたちに授けてきたにもかかわらず、今になって「子どもは多様である」と、祭り上げているだけのように思えてなりません。

 『学校が自由になる日』(雲母書房)という本の冒頭に次のような文章がありました。「たまたま行政が地図のうえに区切った地域から、たまたまある年の四月から次の年の三月に生まれた赤の他人たちを、朝から夕方まで強制収容して無理やり生徒にする。全員に同じ服を着ることを無理強いする。さらに四〇人をひとまとめにして一室に軟禁状態におき、彼らが終日顔をつき合わせているようにする。クラスでは、個人差を無視した全員一致のペースで、算数などの勉強を集団で行わせる。生徒にされてしまった若い人たちは、クラスに全人格を没入させて共生しなければならない。この共生の身ぶりは、きめ細かく、ねじり込むように強制される。ありとあらゆる生活のディテールが集団訓練と呼ばれる思想に従って組織され、生活指導にさらされる。運動場では「きをつけ」「まえへならえ」などと叫んでは肢体を全員一斉に動かす動作を強制する。」学校をかなり批判的に捉えた表現ですが、ここには動かしがたい「真実」が含まれています。「たまたま」集まった子どもたちを比べて、どうなるというのでしょうか。「たまたま」いっしょになった子どもたちを競わせて、どうしたいのでしょうか。テストや通知表を「当たり前」のこととして、子どもを競わせ、点数を付け、序列化するという行為に対して、学校はもっと自覚的になるべきです。評価に関する一連の流れの中で、どのようにして今に至っているのかを、先生たちは再度確認すべきだと思います。突き詰めて言うと、学校の評価は、児童を学習へと動機づけるためにあると考えます。その時、「比較」や「競争」という手段は必要ありません。比較や競争は、正しくないんです。間違った手法なんです。なぜなら、比較や競争は、必ず優劣を伴うものだからです。子ども一人一人の特性を認め、それぞれの個性を伸ばすことが、本来の評価が担うべき役割であると考えます。「今まで行ってきたから」と自らの行いを正当化するのではなく、比較や競争を脱したところで、子どもがどうしたら意欲をもって学習に取り組めるのかを、社会を巻き込んで真剣に考えるべき時に来ているんだと思います。

「人間めいめい個性をもっていて、その個性を生かすから世の中はおもしろい」(松田道雄)

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