3人組ガールズバンド「Hump Back」に、『拝啓、少年よ』という曲があります。2018年にメジャーデビューを飾ったナンバーですが、サビの「負けっぱなしくらいじゃ終われない」というフレーズは聴く者に強く訴えかける力があります。この曲が支持されるのは、この歌詞が多くの共感を得ているからではないでしょうか。
私は勝手に、「この歌詞は学校での競争に対する批判ではないか」と想像しています。「負けっぱなし」の「負け」は、学校での様々な場面に思えてならないのです。現在の学校では、子どもたち全員に同じような課題を与え、一斉に取り組ませています。本来は、一人一人がその課題をどれくらい達成したのかということを見なければならないのですが、そこではなく、「誰がよく(上手に)できたか」「誰がはやくできたか」にもっぱら目が向けられます。そして、テストや通知表といったものが、個別の学習の達成度ではなく、集団の中での位置づけを際立たせ、子どもを序列化することになります。教えられたことが、どれくらい定着しているかという「効果測定」のためにあるべき評価は、点数化することによって比較、競争のためのツールとなっているのです。(点数化という行為は、いともたやすく比較・競争の手段となってしまい、よほど注意して行わないと、指導の効果を測るという本来の目的を果たすことは難しいようです。)設置者の意図とは別に、現在の学校は比較、競争が日常となっていて、子どもたちは自ら望んで競争に参加しているのではなく、半ば強制的にそこに身を置いています。自分から望んで参加する競争であれば、仮に負けたとしてもある程度は納得できます。しかし、自分が望んでいない、あるいは参加を強制されたのであれば、負けを素直に受け入れることは難しいでしょう。そこには、「疑問」(なんで、こんなことやんなきゃなんないんだよ)や「徒労感」(やってられないよ)、「言い訳」(俺、〇〇得意じゃないから)、「怒り」(ちくしょー、ふざけんじゃねえぞ)などの心情が渦巻いていることでしょう。(子どもがこれらの言葉を口にしているのを、時々耳にしてきました。)さらに、負けが続くとなると、心には鬱憤が募るばかり。それは、すべてではないまでも、多くは自分が望まない競争に参加させられていることに原因があるように思います。こんなやるせない心情を抱く少年(少女)に対して、『拝啓、少年よ』という曲は力強く激励しているように思います。「大丈夫、気にすることない」というメッセージとともに、表には出しづらいけれど、大切な処世訓を示しているような気がします。それは、「No」と言うことです。同時にこの「No」は、「私は何人にも支配されない」「私には自由がある」という意思表示にもなるのです。『あぁもう泣かないで 君が思うほどに弱くはない/あぁまだ追いかけて 負けっぱなしくらいじゃ終われない/遠回りくらいがちょうどいい』
人間は、「No」を言いうることで、どんな支配にも屈しない、どんな不条理にも抵抗することができる。これを教えてくれたのは、ギリシア哲学を専門とする岩田靖夫氏です。「私が、ある他者と関わりを持つとする。その人が私にとって他者である限り、その人はいつでも私に「否」と言いうるのでなければならない。そうではなく、その人がいつも私の思い通りに動くとすれば、その人は他者ではなくて、私の道具であり、私の奴隷であり、私の一部分なのである。」(『いま哲学とはなにか』岩波新書)私たちは、一人一人が自由で平等に生きる権利を有し、誰からも支配をされることなく、自らの望む生を享受することができます。どんなに強力に押しつけられたことであっても、「否」と唱えることができるのです。そして、たとえお互いがどんなによく理解し合っていたとしても、私と他者の間には「絶対の断絶が存在する」と岩田氏は言います。「人間は認識できない者である。認識できたならば、もはや人間ではなく、たんなる物である。この意味で、人間は「無」であり、「存在のかなた」なのである。これが、人間が自由であるということの意味である。絶対に認識されえないこと、それゆえに、他者の力の支配下に入らないこと、いついかなるときにも「否」を言いうること、それが自由である、ということに他ならない。」
自ら望んだのではない競争に参加させて、負けた原因は「あなたの努力が足りないからだ」とされる。安定した暮らしを望むならば、豊かな生活を送りたいならば、もっとお金が欲しいのならば、「もっともっと努力しなさい」と刻苦勉励を強いる。私たちは、そんな社会に生きています。そして、多くの人が頑張りの連続に疲れ、嫌気が差している現状にあるのではないでしょうか。本当は不当な競争なのに、今の小学生も中学生も、いやな顔一つせず周囲に倣っているように見えます。それは、高校生も大学生も、社会人も同じです。決してこの競争社会に対する異議申し立てをせずにいます。だから心の中は、鬱憤が蓄積し、「やってらんねーよ」とくだを巻く。しかし、です。負けっぱなしだけど、この勝負は自分が望んだものじゃない。と、ちゃぶ台をひっくり返す。こんなんじゃ終われないと、「No」と叫ぶ。「私には、歌がある、ギターがある。ロックがある!」HumpBackの『拝啓、少年よ』は、心のモヤモヤを一気に吹き飛ばしてくれます。
ということで、学校関係者には、次の二つにもっと心を砕いてほしいと思います。一つは、何気なく子どもたちに課していることが、不当な競争になっていないか。また、子どもが従っているからといって、その競争を続けていないかということ。もう一つは、子どもの「No」のサインを肯定的に受け止めているか。そして、子どもが「No」と言いやすい雰囲気づくりに努めているかということ。教師自身の成長の過程や、これまでの教員生活において、「競争が当たり前だった」ということは、もはや競争を継続する理由にはなりません。比較、競争を正当化できる理由はどこにもないのです。それは、「自分はいじめを受けてきたから、いじめをしてもいいんだ」と言うのと全く同じ。いじめが不当であるように、学校での競争も「不当」だということ。それから、仮に子どもが競争への参加に、唯々諾々としていたとしても、実はそれが子どもを「支配」することにつながっていること。すべての大人に、特に学校関係者に、この感受性を強く求めるばかりです。


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