忌野清志郎のドキュメンタリー『愛し合ってるかい?』を観て印象に残ったもう一つのシーン。それは、清志郎のトリビュートバンド「SWEET LOVER SOULS」のリハーサル場面です。
「SWEET LOVER SOULS」は、「キヨシローをリスペクトするアーティストたちが、素晴らしい楽曲の数々とそのソウルを歌いつなぐべく、世代を超えてスペシャルトリビュートバンド」(関連HPより)として結成されました。このバンドに、サックス奏者の梅津和時が加わったのは、とても意義深いことだと思います。RCサクセションや清志郎のソロ活動をともにしてきただけに、清志郎の息吹を梅津が持ち込んだかのような雰囲気を映像は伝えていました。さらに、ボーカルにアイナ・ジ・エンドを迎え、リハーサルスタジオは、ステージさながらの演奏で最高潮に達します。そんな中でアイナは、「スローバラード」を熱唱して、メンバーから(ギターの「Rei」からだったと思うのですが)こんな発言がでます。「(内容は正確ではありませんが)アイナちゃんの歌をもっと聴きたいよね。きっとお客さんもそうだと思うんだ。歌詞を足して、もうワンフレーズやりたいね」。他のメンバーも同意する様子だったところに、我らが梅津が近づいていって、次のような言葉を発します。これが、とても印象的な台詞でした。
(こちらも正確ではありませんが…)「この「スローバラード」はね、「ぼくら夢を見たのさ とってもよく似た夢を」で終わるの。同じ夢じゃないんだよね。だから、聞いてる人は、どんなふうに違うんだろうって想像するわけ。そこが、いいんだよ。僕らは、そういうふうに思って、ずっと演奏してきたわけ。別の詞を加えてほしくはないんだ。」周りのメンバーも、この発言にはまさにぐうの音も出ないという様子。長きにわたってRCや清志郎を支えてきた梅津だけに、とてつもなく重い言葉でした。
そして、この言葉はとても貴重なことを教えてくれたように思います。それは、時として大人(年長者)は、「ブレーキ」の役目を果たさなければならないということです。ただ、それは決して簡単なことではない。その時々の状況によって判断しなければならないし、場合によっては自分の発した一言が、子ども(若者)の夢を打ち砕くリスクもあることを、十分に認識しなければなりません。「子ども(若者)の夢」と「大人のブレーキ」は、常に綱の引っ張り合いのような状態にあるのでしょう。そんな、微妙な力加減で引っ張り合う子ども(若者)と大人の二者ですが、特に現代に焦点化してみると、大人の方が少し力を緩める必要があるのではないかと考えます。なぜなら、今の時代は、子ども(若者)が正真正銘の夢を持ちづらくなっているからです。
子どもが学校に行くと、大人である先生がいろんなことを教えてくれます。その先生は、授業では教科書を使っています。教科書には、それぞれの教科についての「正しい知識」が書かれています。子どもにしてみれば、世界はもう、いろんなことが発見され尽くしていて、自分が切り拓いていく余地など残っていないような気になってくるのではないでしょうか。また、学校では「一人一人の社会的・職業的自立に向けて必要な基盤となる資質・能力を育み、キャリア発達を促す」という「キャリア教育」が行われています。何かにつけて、「将来の夢」とか「つきたい職業」とかが持ち出されることになります。子ども達の未来も、あらかじめ敷かれたれるの上を進むような、あるいは大人が提示した何枚のカードの中から選ぶような、そんなもののようなものに思えてくるのではないでしょうか。本来、未知であるはずの未来が、「こうした方がいい」「こうすべきだ」という、「既知の未来」になっているように思えてなりません。それは、大人が、経験したり、知ったりしている者からの視点で、必要以上に子ども(若者)に干渉していることが原因なのではないでしょうか。
ですから、大人はもっと子ども(若者)を信じて、彼らが自分自身で描いた夢や、発想をもっともっと大切にすべきだと思うのです。しかし、これは「言うは易く行うは難し」なことなのだと思います。
例えば、大人が子どもの作品に対して「子どもらしい発想がいいですね」などの発言をすることがあります。私も、数え切れないくらいそんなふうに言ってきました。確かに、作品は「子どもらしい」ものであり、その「子どもらしさ」を素直に認めようとする言葉なのだとは思います。が、私がここで問いたいのは、「子どもらしい」と言う大人の側に、ほんのわずかでも社会一般の価値観や、他の子どもとの比較がないか。「役に立つ(立たない)」という計算が働いていないか、ということです。「いいですね」と褒める心の奥底に、実は「まあ、世間一般からしたら並かな」とか、「他の子と比べて優れている(劣っている)」という比較が混ざることがあるのではないでしょうか。また、「こんなのは役に立たない」と否定する心情がわずかでも混ざったり、逆に「これは大成する(物になる)」というような打算が働いたりすることが全くないとは言えないのではないでしょうか。これは、極端な理想論なのかもしれませんが、まったく純粋に、子どもらしさを受け止めたり、受け入れたりすることは、殊の外難しいことなのだと思います。
ですが、本当に子どもの夢を大切にする、子どもの思いを尊重するということを考えると、大人の子どもへのまなざしは、「比較」「相対化」「功利」「打算」などは、すべて捨て去るべきなのだろうと思います。このような大人の姿勢は、ひと言で言うと「愛」ということになるのかもしれません。まさに「愛し合ってるかい?」の「愛」です。
この映画を見て、少なくとも「清志郎ー百世ー消しゴムハンコ」というつながりには、比較も、相対化も、功利も、打算も見出すことはできませんでした。純粋に、父親(清志郎)として、愛娘(百世)が消しゴムハンコに取り組む姿を見守り、作品らしきものができたなら「上手だね」とか「おもしろいね」と、何の混じり気なしに、手放しに賞賛する姿が自然と目に浮かびました。その延長線上に、「消しゴムハンコ作家」という現在の百世の肩書きがあるのだと思います。清志郎は、私生活においても「愛し合ってるかい?」を体現していたということを確信しました。
さて、梅津和時のリハーサルでの一言に戻ります。「SWEET LOVER SOULS」のリハーサルにおける梅津和時の発言は、「ブレーキ」には違いなかったのでしょうが、それは何の迷いもないものではなかったように思います。梅津は、自分自身の、それから多くの清志郎ファンが抱く、名曲『スローバラード』に対する思い出を守るために、意を決して先述の言葉を放ったのではないでしょうか。「できれば言わない方がいい」。ほんの一瞬ですが、躊躇うような、逡巡するような姿が映像にあったことから、そんなふうに推察されます。もしかしたら、アイナのアドリブ的なフレーズを挿入することで、『スローバラード』という名曲に新たなページが加わる可能性もゼロではないのですから。だから、こんな時大人は迷います。言わない方がいいかもしれない。ですが、時として言わなければならない、ほんの一瞬ですが梅津の気持ちは揺れ動いたんではないのでしょうか。
そして、言われた側にも、何かしらの思いはあるはずです。大人は子どものことを思って口を出しますが、若い者には若い者なりの言い分もある。この辺りは、永遠の課題なのかもしれません。初期の頃のRCサクセションに『恐るべきジェネレーションの違い(Oh,Ya!)』という曲があります。「大人達の言うことはわかる 僕は悪いとは思わない/アパートの大家ときたら文句ばっかりだ/夜うるさい素行が悪い いろんな奴の出入りが激しい/風紀が乱れる うるさいアパートだ Oh,Ya!∥大家の言うことはわかる だけど僕の言うことは正しい/少しはわかってくれて この辺の接点はないのか」若かりし清志郎も、世代間の違いを感じていたんですね。ともあれ、子ども(若者)が夢に向かっている時の、大人の役割、そしてその難しさを教えられたような気がしました。


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