そんなこんなで、教員にとって最も大切なコト。それは、「自由」なんだと思います。教員が自由でなければ、子どもの自由を承認することなんかできません。教員自身が自由でいられてこそ、子ども同士の自由も尊重できるのだと思います。(ここでの自由は、好き勝手に何をやってもいいということではありません。)幸か不幸か、私は、今の学校が自由ではないことに気がつきました。皆さんよりも、少し早く。喩えは適切ではありませんが、後手につながれていたロープが、周りの人より少しはやくほどけたのかもしれません。まだ、多くの人がロープでつながれています。これから私にできることは、皆さんのロープをほどいて回ることかなと思っています。「そんなこと言うお前がロープで縛っていたのだろう」と、思われるかもしれません。確かにその通りで、課長や校長という立場で様々な縛りを課していました。(上からの物言いの数々と、退職の段になって動き出す遅さを反省しています。)しかし今は、悠長にこれまでと同じことを繰り返している時ではないのです。皆さんを乗せた「学校」という船は、浸水し始めています。「沈没」まで、おそらくあまり時間がありません。船から逃げるなり、水を掻き出すなりしなくては…。何もしなければ、そして舵取りを「上」(国、文科省、教育委員会など)に任せていたら、絶対に船は沈みます。そして、学校の課題解決は、時間が経てば経つほど、困難になっていくでしょう。これから教員になる人(すでに教員になっている若い人)の多くは、深刻な課題があること(船が沈没しかけていること)すら気付いていないからです。課題に対して何らかの手立てを施さなければならない。そして、この課題の根本に「評価」と「権威」(それから「管理」)があると、私は思っています。これらにメスを入れることが、浸水を食い止めるおそらく唯一の方策なんです。自由を取り戻して、行動に移さなければならないのです。
ところで、よく子どもに「校長先生は学校でいちばんエラいんでしょ」と言われました。権威とは、つまり「偉い」ということです。偉い人から言われたから言うことを聞くとか、偉い人たちが決めたことだから価値があるとか、そういうことからも「自由」になるべきです。偉い人が、そうでない人たちに教える、教えてあげる。本当の学びは、そういう図式ではありません。偉いとか、偉くないとかは関係ない。学びとは、徹頭徹尾、学習者主体です。学びとは、学び手の内側から自然に湧き上がってくるエネルギーによって支えられています。なので、「偉い」とされる人の話は、ほとんどが何を言うのか、言う前からわかっています。「友達と仲よくしましょう」とか、「集中して学習に取り組みましょう」とか、「将来の夢をもちましょう」とか。だいたい同じです。一番いい例は、卒業式とか、全校朝会とかの校長の話です。子どもたちは、その辺りのことはよくわかってます。「あぁ、また同じこと言ってるな」って。権威を笠に、一段高い所から、「下々」に対して話をするとだいたいそうなります。私は、そうしたくなかったですし、そうなりたくもありませんでした。子どもに「わかったよ」と思われたくなかった。「スポフェス」や「西フェス」のパフォーマンスは、そんな思いからやっていたという部分もあります。「次は、何かな」と子どもが思ったら、それでこちらの「勝ち」だと思います。(決して勝ち負けの問題ではありません。あくまで、比喩として。)何が出るかわからないということが、本当の学びへの扉を開くのでしょう。そこには、権威というものは必要ありません。だから、権威という鎧は脱ぎ捨てるべきだ、というのが私の主義であり、主張です。きっと、学習者の側が「偉い」と思った人の話は、スポンジが水を吸収するみたいにすんなりと受け入れられるのでしょう。
村上春樹に『ラオスにいったい何があるというんですか?』という本(紀行文)があります。その中に次のような一節があります。「さて、いったいラオスに何があるというのか?良い質問だ。たぶん。でもそんなこと訊かれても、僕には答えようがない。だって、その何かを探すために、これからラオスまで行こうとしているわけなのだから。それがそもそも、旅行というものではないか。」私は、この最後の部分をこう言い替えたい。「それがそもそも、学びというものではないか。」本当の学びとは、そこに何があるのかさえも分かっていないものなのではないでしょうか。学校で行われていることは、ガイドマップを見ながら事前の計画ばかりを丹念に立てているようなものであるか、もしくはバスに乗っていれば名所旧跡に連れて行ってくれるツアーのようなものなのかもしれません。本来の学びは、正解が一つしかない「お勉強」とは根本的なところで異なります。「学びを子どもの手に取り戻す」というのは、つまりそういうことです。
学校経営の中で私がしてきたこと、この通信で皆さんに伝えてきたこと。それは、おそらく「余計なコト」なのだと思います。でも、この「余計なコト」が私たちが自由でいられる「証」であり、「砦」でもあるのです。私のやってきた「余計なコト」がいつか皆さんの「心と直感を信じる勇気」へとつながることを祈りつつ、この通信を閉じたいと思います。長々とお付き合いいただき、本当にありがとうございました。
※「スポフェス」:「スポーツフェスティバル」西新宿小学校が、2024年度から行っているイベント。一般的な「運動会」。「西フェス」:「西新宿フェスティバル」同じく西新宿小学校が、2024年度から行っているイベント。一般的な「学芸会」と「音楽会」。


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これまで以上に長井さんの活動に目が離せなくなりそうです! ロープをほどくお手伝いをぜひさせてください。